デジタル vol.53

ここ25年のインターネットやスマホの普及によって紙媒体は衰退したが、人々が目にする文字情報は確実にいや大幅に増えた。印刷された文字は紙の重みやインクの香りを伴い、それを脳に吸収する過程の時間にさえ幾ばくかの価値を感じさせるものだったが、デジタルの文字をかみしめるように読む人はいないし、その1文字1文字に愛着を感じる人もいないはずだ。デジタル化は文字を活用しながらも、文字の実存をゆるやかに消し続けているのだろう、今も。 


デジタル化によって消えたもう1つのものは、限られた紙幅の概念だ。情報はいくらでも出せるようになり、誰でも提供側に回ることができる。日々生み出される膨大な文字情報は、目の前にある画面や手のひらの中で消費され続ける。そして、役目を終えた情報は古紙として再生されることもなく、インターネットの海にしばし蓄積される。 


消費される情報は、毎日摂取する食事と似ている。日々求められるものになった情報はどんどん生産されるので、情報に携わる業務は増えている。しかし、量は増加したものの、その質はおそらく人々の会話レベルになった。毎日消費する情報は、読んで疲れない程度に興味を抱かせるものでなければならないのだ。奥深い考察はデジタルでは読む気になれない。それは長い文章を画面で読むと目が疲れるという、単純な理由からかもしれないが。  


日々更新して興味を引き続けることで成長するネット媒体は、必要な記事の数が紙媒体とは明らかに違う。デジタル化は、雑多な情報を日常的に消費するスタイルを構築し、噂話のような情報を日々無意識にキャッチしてしまう人々を量産しているようにも思える。


 ここで、いままでデジタル化やインターネットやスマホの普及によるものと思っていたことが、その主体が実は違っていたことに気づく。底浅の情報をキュレーションして我々に与え続けていたのはポータルサイトではないか。ポータルサイトによって大衆のスマホ脳は作られているのだ。だが、そのことに気づいても、そこから脱する術が見つからない。それほどまでに中毒性のあるものに、すでにどっぷりと浸かっていることに気づかされただけだ。 


今年もあと少しだというのに、明るいニュースがないのでどうもいけない。(何かに行き詰っているわけではないので、読んでくださった方にはご心配などされないように願う)。夜中に打った駄文は幸いにもデジタルなので、気まぐれに消去もできそうだ。デジタルは便利なものだな。 

Ki・Ma・Ma いつもの日々 with camera

ANTIQUE × Camera 変わらないのがいい、いつもの日常。