1995.1.17 Vol.225

その日
私はインフルエンザで寝込んでいた。
夕方16時頃に
のそのそと起き上がってテレビをつけると
興奮気味のアナウンサーの声とともに
高速道路が倒れている様子が画面に映し出されて
こんなに大変なことが起こっているのに
私は知らずに寝ていたのかと愕然とした。

当初、その地震は
「平成7年兵庫県南部地震」と呼ばれていた。
これは気象庁によって発表された名称だった。

その後、被害の大きさが知られるとともに
メディアは地震に名前を付けるのは我々の役割とばかりに
「大震災」という言葉を使い始めた。

それまで震災と言えば
大正12年の「関東大震災」が伝えられるだけだった日本で
ビルや建物が壊れる場面がテレビに映し出されたことは
大きな衝撃だった。

その後、2月になり
災害の名称は 閣議で「阪神・淡路大震災」と定められた。



阪神・淡路大震災によって
人々はトリアージという言葉を知り
我が国の防災基本計画は
その年の7月に大幅に見直された。


いつだったか
まだ地震の傷跡が残る頃に、神戸を訪れたことがあった。
それは、私にとって初めての神戸だった。

せっかく神戸に来たのだから…と
ランチに鉄板焼き屋さんに入ると、店主さんが
「地震の時には電気が止まってしまったから、
冷蔵庫にあったお肉を焼いてみんなに振舞ったんだよ」という話しをしてくれた。

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今朝、用事があって早めに起きると
午前5時46分の黙とうの様子がテレビで流れた。
人々が、街がまだ眠っている
夜明け前の出来事だった。 

Ki・Ma・Ma いつもの日々 with camera

ANTIQUE × Camera 変わらないのがいい、いつもの日常。